閑散とした巌戸台駅前で、封筒を手にゆかりは立ち尽くしていた。
手にした封筒の宛名は紛れもなく自分の名前。そして差出人は……最愛にして、もうこの世にはいない人。幾枚分かの厚みがある封筒の口は未だ切られていない。この手紙がゆかりの元に届いたのは数日前だ。
封筒を開けようとする手がどうしても直前に止まる。何度試しても封を切ることができない。
何のためにここまで出てきたの!と自分を励ますも、やはり同じ。堂々巡りにため息をひとつ。
「すみません、道を訪ねたいんですが……」
背後から遠慮がちにかけられた声にゆかりははっとした。急いで振り返る――が、そこには誰もいない。
「あの、下です。下」
「………………………は?」
ゆかりは一瞬気が遠くなった。手の力が抜けて大事な封筒を取り落としそうになるところを、どうにか微かに残っていた理性で引っつかむ。
言われたとおりに下を向いたら、確かにいた。ぶたのぬいぐるみ、が。
「……ぬいぐるみ?」
「ええ、そうですよ」
「!?」
鼻先がもくもく言って、中年男性のような声が聞こえる。
「ちょっと巌戸台警察署の場所を教えていただきたいんですけど」
ゆかりは目を見開いたまま思考停止に陥った。
「……大丈夫ですか?」
心配そうにぶたのぬいぐるみはゆかりを覗き込んだ。……心配そうって、どうして分かるんだろう。でも、そう見える。
「……何、よ」
「はい?」
「あんた、私を馬鹿にしてんの!?」
ぶたのぬいぐるみはゆかりのいきなりの怒声に目を点にした……といっても元からビーズでつけられたその目は点だったけれど。
「どこに隠れてるか知らないけど人を小馬鹿にするような真似して……出てきなさいよ」
「あの」
「出てきなさいよ!」
そういって周りをぐるりと見渡す。しかし視界の中には誰も入らない。うまく隠れているのだろうか。
「人が困ってるの見て楽しいの?私が悩んでるの見てて楽しいわけ!?影で笑ってるんでしょ!?」
「お嬢さん」
真剣な声にゆかりの溜飲が少し下がる。
「大丈夫ですよ。あなたは、大丈夫です」
ぬいぐるみは優しく微笑んでいた……ように見えた。
「……」
「混乱させてしまってすみませんでしたね。いきなり話しかけたりして申し訳ないです」
「……いえ」
優しくそう言われて少し落ち着いた。意外に紳士なぶたのぬいぐるみである。自分が取り乱していたことに気が付くと少し恥ずかしくなって、恐縮しながら謝った。
「えっと……怒鳴っちゃったりしてごめんなさい」
「いえいえ。驚かれるのも仕方ないですよ」
「……ぬいぐるみ、ですか?」
「はい」
「……本当、に?」
「うん。大丈夫ですから。気にしないでください」
気にしたふうでもなくぶたのぬいぐるみは答える。大丈夫、って何が?
「落ち着きましたか?」
「え、あ、はい。ホントごめんなさい」
「いえいえ。悩んでいるときはぶちまけてしまったほうがすっきりするものですし」
どきりとした。このぬいぐるみはどうしてそんなこと……。
「手紙、潰れかけてますよ」
「あっ!」
ぬいぐるみとの会話でふと気が抜けて、丁寧に持っていた封筒がぎゅっと握った手によって皺がよっていた。かろうじてまだ潰れてはいなかったけど。
「ありがとうございます……これ、大事なもので」
「でもまだ中身は読んでないんですね」
愛くるしい姿ながらずばりと言われた。
「……はい」
「悩みの原因はそれですか?」
普段のゆかりなら、人の事情に踏み込んでくるような行為を疎ましく思うだろう。しかし、このぶたのぬいぐるみに対してはその気持ちは沸き起こらなかった。それどころかぽろりとこぼしてしまう。
「……父親から、なんです」
「お父さん?」
「10年くらい前に死んでます」
ゆかりは簡単にこの手紙が来た経緯を説明した。ムーンライトブリッジで行われたイベントによってこの手紙がゆかりの元に届いたこと。父親がそんなものを書いていたことをゆかりは知らなかったこと。
「素敵なお父さんですね」
それを聞いたぶたのぬいぐるみが言った感想は、なんとなくだがお世辞には聞こえなかったので嬉しかった。しかしゆかりは素直に喜べなかった。
「私の大好きなお父さんです。人から何を言われようが、私の大切なお父さんなんです。でも」
この手紙には「本当のお父さん」が書いた内容を知ることができる。ゆかりの信じていた「優しいお父さん」の言葉がそこにあるはずだ。
「でも」 そうじゃなかったら?もしかしたら、お父さんは「優しいお父さん」ではなかったかもしれない?
10年前の真実に向き合うことが、どうしてもできないのだ。
「あなたは」
ぶたのぬいぐるみがゆかりを遮るように口を開いた(……開いた?)。
「あなたは、お父さんが大好きなんですね」
幸せそうな笑顔で、ゆっくりとそう言った。
「大好きで、大好きで……。あなたのような娘さんを持って、あなたのお父さんは幸せ者だ」
―――……ああ、そうだ。私はお父さんのことが大好きだ。大好きなんだ。
ぬいぐるみから言われた言葉に、ゆかりは微笑んだ。
「そうだよね……ありがとうございます。ぬいぐるみさん」
「あれ、何かお役に立ちましたか?……それは、よかったです」
少し照れくさそうにぬいぐるみは微笑んだ。
「ああ、でも私は『ぬいぐるみさん』ではなくて、山崎ぶたぶたというんです」
「やまざき……ぶた、ぶた」
なんて「らしい」名前だろう。
「あ、私は岳羽ゆかりです」
「ゆかりさん、ですか。可愛い名前ですね」
当たり前だ。お父さんがつけてくれた名前なんだから。
ぶたぶたに警察署への道を教えて、ゆかりはまた静かな駅の前で一人になった。スカートのポケットから一枚のメモを取り出して道を確かめる。それには巌戸代分寮への道程が示されている。偶然にも適正が見出されて特別課外活動部にスカウトされたのは、手紙が来た1日前だった。
「……よーするに、覚悟足りなかったんだよね」
ゆかりはメモを見ながら、真っ直ぐ寮に向かって足を踏み出した。手紙を読むのは……今は、後でもいい。
―――――
影日記を参考にして、ちょっとこんなことで悩んだとしてもいいじゃないと思ったりして。
ぶたぶたさんは不必要には他人の事情に踏み込まないとは思いますが、きっと娘と同じくらいの年頃だからつい声かけちゃったとか……そんなのだと思います。2009年ですし(笑
多分、他のメンバーとも会わせます(笑